箴言8章

8:1 知恵は呼びかけないだろうか。英知はその声をあげないだろうか。

 知恵は主の御心を受け入れ従う分別で、擬人化されていて、主からの言葉として呼びかけています。それは、祝福の道に至ります。英知は、御心どおりに行う分別です。主が求めていることは、御心を行うことであるのです。

8:2 知恵は、道の傍らにある丘の上、通りの四つ角に立ち、

8:3 町の入り口にある門のそば、正門の入り口で高らかに言う。

 知恵が立つ場所は、道の傍らの丘の上です。そこは、人通りの多い所の近くであり、小高く声のとおりの良いところです。通りの四つ角も、多くの人が行き交うところです。町の門の入り口も、人通りが集中するところです。正面の入り口は、より多くの人が通ります。そのようにするのは、主が御心の内を歩むことを強く求めているからです。関心がないならば、放っておかれるでしょう。ここには、必ず聞かせるという覚悟があります。

8:4 「人々よ、わたしはあなたがたに呼びかける。人の子らに向かって声をあげる。

 呼びかけることは、聞かせることを強く求めるやり方です。人に向かって声を上げることも、必ず聞かせる方法です。これも、主がその御心を行うことを求めてそれを聞いて受けれ入れ、その通りに行うことを求めているからです。

 しかし、人は、それを熱心に求めることをしないことがしばしばあるのです。教会に集っていて、神の言葉が取り次がれているときでさえ、居眠りして聞こうとしないのです。あるいは、頭の中では、関係ないことを考えていて、その言葉を心に留めないのです。このようにしているならば、後退はあっても、成長は期待できません。

8:5 浅はかな者たちよ、賢さを身につけよ。愚かな者たちよ、良識をわきまえよ。

 浅はかな者は、知恵の言葉を良いものとして受け入れることと、この世のものや肉に従うことで満たされようとすることの価値を比較判断することができない人のことです。永遠の祝福に心を止めることができないので浅はかなのです。彼らが判断できるような賢いものになることが求められています。

 愚かな者たちも同じです。彼らには、心すなわち霊的な内面が欠けているのです。そこには、知恵、英知、悟りなど霊的な器官がありますが、神様の御心を受け入れ従い、自分のものとして行動することを求めています。愚か者は、霊的な事柄に無知なのです。

・「浅はかな者」→判断力が未熟な人。

・「良識」→心。霊、たましいなど霊的なものを包含する。

8:6 (なぜならば)聞け。わたしは高貴なことを語り、わたしの唇からは公正が出るからだ。

 その理由を示し、その語ることは、その言葉を受け入れた者が受け継ぐ良いものであり、神に仕え、王として支配することであるのです。それを永遠の祝福として受け継ぐのです。話の内容が高貴であるということではありません。

 また、その言葉は、真っ直ぐです。嘘偽りがない、信頼に値しないものではないのです。

・「高貴なこと」→支配者。契約は、王である祭司になること。

・「公正」→真っ直ぐであること。公平。公正。

8:7 (なぜならば)まことに、わたしの口は真実を告げ、わたしの唇は不義を忌み嫌う。

 さらに、重ねて、真実を語ることが示されています。主は、不義を語ることを忌み嫌う方です。

8:8 わたしの口のことばはみな正しい。そこには、ねじれたことや曲がったことはない。

 さらに、主の口の言葉は正しいのです。そこには、ねじれたことや曲がったことはありません。

8:9 これらはみな、悟る者には当然のこと。知識を見出す者には正しいこと。

 それらは、悟る者の真正面にある。彼らは、まっすぐ見据えているのです。愚か者は、真っ直ぐに見ようとはしないのです。知識を見出す者にはその言葉が正しいものであることが分かるのです。愚か者は、本気に信じようとはしないのです。

・「当然のこと」→正面の。

8:10 金ではなく、わたしの訓戒を受けよ。選り抜きの黄金よりも、知識を受けよ。

 金は、この世の富や価値観を表しています。しかし、主の訓戒は、それよりも価値あるものです。知識は、選り抜きの金よりも尊いのです。

 対比の対象である金は、訓戒や知識で得られる物の価値の比喩にななっています。これは、聖書の対比と比喩における手法で、時々使われています。金は、義を表しています。主の訓戒や知識は、その人を義とします。その歩みが義とされ、義の実を結ぶのです。これは、永遠の栄光をもたらします。

8:11 知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これとは比べられないからだ。

 知恵は、主の御心を受け入れ従う分別ですが、その価値は真珠に勝ります。真珠は、聖書では最も高価な宝石です。知恵のもたらす喜びは、どんな喜びにも勝ります。これと比べられるものはありません。アブラハムは、待ち望んだ子、愛している独り子のイサクを神の言葉に聞き従って捧げました。彼は、神の言葉に従うことを喜びとしていたのです。いやいやながらではありません。

8:12 知恵であるわたしは賢さを住まいとする。そこには知識と思慮がある。

 知恵は、軽率に欲望に従うような心には住まないのです。思慮深く判断する心に住みます。そこには、神の教えとしての知識があります。また、その知識を自分のものとしている思慮があります。それによって判断し、行動できるのです。

・「賢さ」→慎重さ。思慮深さ。

・「思慮」→その人の持つ教え。神の言葉に整合していることが幸い。

8:13 主を恐れることは悪を憎むこと。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれごとを言う口を憎む。

 主を恐れていて悪に染まることはあり得ないことです。主を恐れるならば、主に適う歩みを求めるようになります。それは、悪を憎むことです。主御自身が、それらを憎むからです。高ぶりを憎まれます。高ぶりは、御言葉に対する高ぶりです。御言葉を信じて受け入れることがないのです。おごりは、自分を高ぶらせることです。悪の道は、悪に歩むこと。ねじれたことを言うことは、主の御言葉を真っ直ぐには語らないことを言っています。御言葉を取り扱っていても、正しく語らないのです。御言葉を取り扱う者は、語る言葉についてよく吟味する必要があります。

8:14 摂理と知性はわたしのもの。わたしは英知であり、わたしには力がある。

 知恵は、神の御心を自分のものとしています。知恵には、神の御心を受け入れる器官としての知性が備わっています。そして、受け入れている御心を実行する力があります。

・「摂理」→計画。御心。

・「知性」→信仰によって神の御心を受け入れる器官。

・「英知」→御心を実現する力。

8:15 わたしによって、王たちは治め、君主たちは正義を定める。

8:16 わたしによって、君主たちは支配する。高貴な人々も、義のすべてのさばき人もそうだ。

 王たち、君主たちは、知恵によって事をなします。治めたり、正義を定めます。知恵によって君主たちは、支配します。高貴な人々も王とともに治める人たちです。

8:17 わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。

 知恵を愛する者は、知恵に愛されます。知恵を熱心に探す者は、知恵を見出します。御心を受け入れ従う分別は、それを愛して、求める人に与えられます。

8:18 富と誉れはわたしとともにある。朽ちない財宝も義も。

 富と誉は、私たちが受け継ぐ永遠の資産としての報いの比喩です。御心を受け入れ従う分別のあるところに永遠のいのちとしての報いがあります。それは、朽ちない財宝とあるように、永遠の宝です。主が天に宝を積みなさいと言われたことと同じです。それは、義と記されているように、霊的なものです。義は、御心を行うところに結ばれる実です。

8:19 わたしの果実は黄金よりも、純金よりも良く、わたしの産物は選り抜きの銀にまさる。

 それが知恵によってもたらされる果実です。それは、純金よりも良いものです。知恵が生み出す産物は、選り抜きの銀にまさります。

 これは、この世の価値あるものとの対比により、知恵のもたらされるものの価値について示していますが、対比の対象になるものは、知恵によってもたらされるものの比喩にもなっています。これは、箴言の対比においてよく用いられている手法です。

 純金は、神聖を表しています。金は、義を表します。知恵の結ぶ実は、神聖なのです。世とは分離された聖いものです。神の栄光となるものです。また、銀は、贖われた者の歩みを表しています。それは、肉に死に、聖霊によって、新しく生まれた者として生きることの比喩です。選り抜きの銀と言われているように、混じりけのない、肉によらない歩みです。

8:20 わたしは義の道を歩む。公正の通り道のただ中を。

 知恵は、義の道を歩みます。これは、知恵による歩みが義の道を歩むことを表しています。公正は、規定という意味です。神の教えといえます。神の教えから離れることなくその中を歩むことを言っています。

8:21 それは、わたしを愛する者に財産を受け継がせ、彼らの宝庫を満たすためである。

 それは、知恵を愛する者に財産を受け継がせます。神の御心を受け入れ従うことが知恵ですが、それを愛して従うならば、主は、豊かに報いてくださいます。宝を受け継ぐのです。それは、その人の宝庫を満たします。その宝庫は、天にあります。御国でのその人の受け継ぐ資産なのです。

8:22 主は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたしを得ておられた。

 主は、神の御子、イエス様のことです。主は、ご自分の働きの初めにその御業の最初に知恵を得ておられました。その御業は、次節との関連で、天地の創造を指しています。主の業は、知恵によったのです。

8:23 わたしは、大昔に、初めに、大地の始まりの前に、立てられていた。

 知恵は、大昔に立てられていました。

8:24 まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしは生み出された。

 十二節の記述から、「わたし」は、知恵です。しかし、読み進めていくと、三十節では、天地を組み立てる方として示されています。これは、御子であるイエス様の業です。その業において、イエス様は、知恵によってすべてのことを実現されたことを表しています。これは、完全に知恵によって事をなさるイエス様の完全な模範として示されているのです。

 この部分は、地の創造です。まだ深遠もありませんでした。水のみなぎる源もありませんでした。その時生み出されました。「生み出された」ことは、被造物でない、神とご本質を同じくするものを表現するときに使われます。

8:25 山が立てられる前に、丘より先に、わたしは生み出された。

8:26 主がまだ地も野原も、世界の最初のちりも造っておられなかったときに。

8:27 主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、

8:28 上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、

8:29 海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、

8:30 わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。

 主が天を堅く建てられた時にも、既に主はおられました。主は、深遠の面に円を描かれました。これは、被造物は、主の設計によることを表しています。御子は、それを組み立てる者として働かれました。設計者としての主の御心を受け入れ、その通りに実現する働きを表しています。これが知恵です。人も、神の御心を受け入れ従うことが知恵であるのです。それは、分別であり、御心だけを行う分別が知恵であるのてす。御子は、毎日それを喜びとしていました。そして、それは、楽しみであったのです。

 知恵によって歩むことは、喜びであり、楽しみであるのです。

8:31 主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。

 出来上がったものは、主の設計によります。それで、主の地であるこの世界で楽しみ、人の子らを喜びました。それは、主の栄光を現すものとして造られました。そのような父の業を喜んだのです。

8:32 子たちよ、今、わたしに聞き従え。幸いなことよ、わたしの道を守る者は。

 それで、人の子たちが本来現すべき神の栄光を現すことを命じています。今、知恵に聞き従うことを求めています。知恵の道に歩むことが幸いなのです。

8:33 訓戒を聞け。知恵を得よ。これをなおざりにしてはならない。

 訓戒を聞くならば、それを聞いて受け入れるならば、それが知恵です。これをなおざりにしてはならないのです。神にとって尊いことであり、価値あることなのです。それで、その道を歩むことを求めています。

8:34 幸いなことよ。日々わたしの戸の傍らで見張り、わたしの門の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。

 戸は、主の言葉の出てくるところを表しています。それを見つめることは、信仰によって受け入れようとして待っていることを表しています。知恵を見出そうと待っているのです。

 門は、支配を表しています。その言うことを聞き従うことを表しています。

 知恵は、神の言葉を受け入れ、聞き従う分別であるのです。

8:35 なぜなら、わたしを見出す者はいのちを見出し、主から恵みをいただくが、

8:36 わたしに背を向ける者は自分自身を痛めつけ、わたしを憎む者はみな、死を愛するからだ。」

 幸いな理由は、知恵を見出す者は、命を見出すからです。そして、主が契約を忠誠をもって果たすからです。主と共に歩む命を経験し、御心を行うことで、永遠の報いを相続するからです。これは、永遠のいのちです。一方で、主に背を向ける者は、自分自身を痛めつけます。背いている間、命を経験することはありません。報いもありません。主は、懲らしめのために打たれます。知恵を憎む者は、死を愛しているのです。命を求めないからです。